ペナン・ライフスタイル, ヨガ

ペナンでヨガでのこと

ペナンでヨガを始める前から、私がずっと思ってきたことがあります。

 

こういうことを言うのは、鬱陶しいと思われるかもしれないと思って避けていました。

「先生が面倒くさい」「偉そう」とネガティブにとらえられるのではないかと恐れて、ずっと言っていませんでした。

 

だけど、この1年、生徒さんたちの様子を見て来ました。

いつも来てくださって、真剣にヨガをして、瞑想してる姿。

 

それで、「やっぱり、まずは私が生徒さんたちを信頼しよう」と思い直しました。

こういうことを言うのは、私にとっても勇気が入ります。受け入れられないかもしれないからです。

 

だけど、私から生徒さんを信頼して、オープンにしようと決めました。

 

以下は、私がずっと、ペナンでヨガを作るにあたり考えて来たことです。

 

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ペナンでヨガは、基本的に誰でもウェルカムです。ヨガが初めてでも、身体が硬くても、自分の範囲で行うので全く構いません。ヨガマットと水筒、レッスンフィーだけで参加できます。

 

ただ、これだけは「ペナンでヨガ」として守らなくてはいけないと思っていることがあります。

 

それは、私たち1人1人がお互いに尊重しあう場であろう、と言うことです。

 

私たちは、1人1人、素晴らしい存在です。クンダリーニヨガではそう考えています。

それなのに、他人からのレッテル、自分自身にはるレッテル。そういうもので、私たちは自分の存在を傷つけてしまう。

その傷は、痛みとなって私たちの可能性を狭めていく。

だから、年齢・ジェンダー・外見・国籍・民族・性的指向・宗教・体質などについて、

社会の歪んだ概念、差別を元にした概念を「ペナンでヨガ」の場にそのまま流入させることは、私は受け入れません。

 

私たちが、そのままの自分らしく、安心していられる場所。

ジャッジされたりすることなく、誰もがリラックスして心と体をしなやかに解放できる場所。

「ペナンでヨガ」は、そんな場所にしたいと思ってやってきました。

 

逆に言えば、私は、この線を守らなければ、「ペナンでヨガ」をやっていること、

クンダリーニヨガのクラスに意味がないのでないか、と思っています。

 

だから、本気でこの場所を守ろうと思ってます。

 

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私がクンダリーニヨガで学びもっとも大きなインパクトを受けたことの一つに、

「クンダリーニヨガによって、その人の可能性を生かすことができるようになる」ということがあります。

 

それまで、私は「自分の可能性」を考えたことがありませんでした。痛みを感じないように麻痺させていると、もはや自分の可能性なんて見なくなるのです。

 

例えば、小さい頃に犬に噛まれて、それ以降、犬に対して恐怖を感じてしまう人がいるとします。

その恐怖によって、それ以降の人生の選択肢は狭まってしまうでしょう。

でももし、その恐れを取り除くことができたら、その人は犬と一緒に暮らし、素晴らしい関係を築いたかもしれません。

もちろん、犬と一緒に暮らすことだけが人生の豊かさではありませんが、恐怖の記憶は、

その人に起こり得た素晴らしい選択肢のいくつもを奪うことになるでしょう。

 

だから、私は、偏見や差別を内含した「概念」によって、誰も傷つけられるべきではないと信じています。

それは不当なことです。

その人の可能性を奪うこと。

私たちは、豊かな可能性を持ち続ける権利を持っています。

 

 

 

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当たり前のことですが、言葉そのものを使うことを問題視している訳ではありません。

(「40才をすぎると、ギックリ腰になる人が多いようですよね」

「男性だとスポーツされている方が多いですか?」のようには言うときに問題を感じません。)

 

問題は、背後にあります。人を貶めて力を奪う、言葉の内包する「考え方」。それが社会の不健全さを浮き彫りにしているのです。

例えば、(自分も含めて)年齢や体型を笑ったりしたら、それを笑いにする前提(例「太っている=滑稽」)を肯定することになるでしょう。

 

「太っているなら笑われていい」「年を取ることはみっともないことだ」

そんな社会は、誰にとって居心地が良いのでしょうか。

目の前にいる人の存在を「太った人」「おじさん」「おばさん」などと矮小化し、つまらないものとしてしか見ないこと。

人を傷つける装置を維持させてしまうこと。

 

また、特に女性は、外見のことを言及されがちです。

残念ですが、女性には外見が重要だ、という社会の不健全さがあるのです。

(もちろん男性は抑圧されていない、と言っている訳ではありません)

「女性は外見をよくしなくてはいけない」「そうでなければよく扱われない」

というプレッシャーが少なければ、どれほどその他のことができるだろうかと残念なことに思います。

 

ただ、ここで確認しておきたいのは、私は、それを言う「人」を非難している訳ではないのです。

ほとんどの場合、それを言っている人に悪気はありません。

私たちを傷つける暴力装置を延命させたくないということです。

 

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私は、「その人の存在そのもの」を見よう、肯定しよう、という立場です。

クンダリーニヨガでは、誰の中にも神聖なものがあるという考えかたを持っています。

あなたの前にいるのは、「太った人」「おばさん」「おじさん」「若い女性」といった抽象的な存在ではありません。

カテゴライズしてしまえば、目の前にいるその人は見えません。

 

概念によって色づけられたメガネを外したら、何が見えるでしょうか。

 

あなたの目の前には、今まで一生懸命生きていた、複雑な内面を持った、美しい1人の人がいるのです。

 

そしてあなた自身も、美しい人の1人なのです。

 

 

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クンダリーニヨガは、私たちを「癒す」ものだと考えられています。

もし私たちが、社会によって傷つけられた痛みや恐れを取り除けられれば、どれだけ自由になるでしょうか。

癒されると、「豊かな可能性を持った存在である自分」に、私たちは初めて気づくでしょう。

 

それは、私がクンダリーニヨガの中で学んだことの一つです。

 

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クンダリーニヨガの場は、みなさんとの大事な場所、安全な場所です。

誰も傷つけられることはあってはなりません。心配なく、安心していられる場です。

 

年齢・ジェンダー・国籍・民族・性的指向・宗教・外見・体質などについて話そうとすると、

「歪んでない」言葉にするのは、とても難しいことに気づきます。

社会によってすでに、強い「意味付け」がされているから。

 

こうやって私たちは、日常的に、自分たちを傷つけてしまいがちなのです。

 

だけど、努力しましょう。

こう言っている私だって、完全にできている訳ではありません。

不用意な発言をするときもあるでしょう。

人や自分を傷つけることもあるでしょう。

だからこそ、みなさんと一緒に努力したいと思っています。

 

 

一緒に、場を作りましょう。

 

目の前の美しいものを傷つけないこと。

 

美しい「あなた」も傷つけないこと。

 

 

そういう場所で、私たちはヨガをしましょう。

 

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私たちは、誰もが可能性に溢れていて。

一人一人が、美しい存在であること。

 

クンダリーニヨガは、それを信じているのです。

 

 

他の人を大事にするのと同じぐらい、あなた自身も大事にして欲しい。

 

 

ペナンでヨガの生徒さんたちは、一緒に、この場所を守って欲しい。

 

あなたの存在を大事にする場所。

 

安心して、自分の深いところとつながっていける場所。

 

 

 

 

クンダリーニヨガの行われるのは、そういう場所なのです。